もう少し、待っていて

 

 

順調に季節が巡っている証拠。

しとしと、というにはいささか強く、

空から水が滴っています。

 

過ごしやすい季節が過ぎて、来る光強い季節の準備期間。それなりに情緒もあって、潤いの景色をそこかしこで堪能できる。

 

でも、今はごめんなさい。

 

植え込みの葉っぱに当たる雫が立てる音や、グレーの低い空や、急にひんやりとする風や、

目の前にたくさんの白い線が次々に引かれていく光景が、とてもとてもぼくを追い詰めてくる。意志薄弱なぼくの柔い決意のこと、小さな不安の芽や、軽薄な交換や、大事なものを乱暴に扱ったこと、そのどれもこれもに大きな罰と糾弾を与えられているようで。

 

巡る数ある季節の中でこの雨も大事な要素の一つ。

それはもちろん分かっていて、次の季節、色濃い花の栄養にもなる恵みなのも重々承知。

 

でもでも、ごめんなさい、今はごめんなさい。

もう少しだけ、ほんのもう少しの期間だけ、ぼくに柔らかい光の力を貸してください。

 

 

2016/6/13

 

旅は徒歩圏で

 

 

学生の頃、何回生だったかな、たぶん3回生、ようやくゼミというのが大学でも始まって、気持ちも新たに!という時期だった。

 

割と自由なクラスでどんな手法を選んで表現してもいいよ、という感じの毎日で、ぼくもようやくこれがぼくにとって一番馴染みの良い方法じゃないか、というものを見つけて、のろのろとではありながら、なんやかやと製作の日々。

 

その時たまたま美術館としては小さめな私設美術館でやっていた展覧会のタイトルが"きんじょのはて"。ぼくがとても好きな作家さんの展覧会で、いそいそおしゃれな街の片隅に向かったのを覚えている。

 

"きんじょ"っていう言葉に"はて"なんて言葉が続くなんてなんだか変だなぁ〜と思いつつ、いつも小さく丸まって過ごしているぼくにとっては不思議と心地よい響きがあって。

 

その展覧会に影響を受けながらも、それからもぼくにとって旅というのは見知らぬ土地に、できたら飛行機に乗って、海を越えて、聞きなれない言葉が聞こえてきて、食べた事もない味の食べ物を食べて、見た事もない景色が目の前で、というのが旅でした。

 

ゴールデンウィークなんて休日があって、ぼくにはあまり関係ないと言いつつもほんの少し、ぼくもその恩恵に預かったものの、時すでに遅し、遠出なんてもうどこも予約でいっぱいで、おこづかいも足りない。でもお休みの空気に誘われて、いてもたってもいられずにパジャマに間違われてもしょうがないような出で立ちで、お家から路地を数本遡ってみる。

 

ほぉ〜〜、いつも駅からお家までの道しか通らないぼくにとっては全く別の街。

番地だって数番しか変わらないのに、何もかも見た事もないし、すでにどこにいるのかもわからない。でもどこかすごく懐かしい、子どもの頃に見たような。

 

路地数本先にも、飛行機に乗って行ったあの国みたいに、会った事もない人がいて、見た事もない景色があって、知らない生活があって。

 

駅前の大きなビルの位置がわかれば、今どの辺にいるのかわかるような気がして見上げてみたら、もくもく煙をあげる煙突が。

こんな高い煙突、うちからは全く見えないのに。

ほんとはもう何時間も歩いて、遠く遠くに来ているのでは?

もしやもしや、いつのまにか神隠し?にあって時代すら違うところにきているのでは?

 

旅特有のあの不安、でもやめられないドキドキ感がこんなに近くにあるなんて。

まさかのきんじょのはてにあの展覧会から何年も経てたどり着くとは。

 

寄ってくか、と入った煙突と立派な破風屋根の下は、綺麗な紫色のラベンダーの香りのするお湯の日でした。

 

 

2016/5/6

汚れゆく様まで

 

 

春の日。

この言葉が図鑑に載っていたとしたら、この日はその図版として使われるだろうというくらいの春の日。

 

そんな中、一目散に向かうのはたまに伺う大好きなお店。

この日はその上、尊敬する物作り人の展示会。

 

ため息が出てしまう。別に無意識の早足のせいでもなく、休日の人混みのせいでもなく、少々強い風のせいでもない。

 

目の前の光景が、見事に僕が思うかっこいいそのものだったから。

華美ではないけれど、しっかりと根のある植物みたいに、ピンと葉の先まで水が届いている感じ。多くを声高に叫ぶわけではないけれど、限られた言葉で、最も大事な核だけ言う感じ。

 

触りたくなるのがいつもの彼らの服の特徴。

この衝動を押さえられる人はとても少ないと思う。

ついつい手が伸びて、しっかりとその感触を感じたくなってしまう服。

 

ぼくも例にもれず、どれもこれもまずは手で堪能して、手だけでは留まらず、

体で感じたくなった二着を持って試着室へいそいそと入る。

 

羽織ってほんの数秒後、

鏡の中に見たのは、その服と僕との長い関係の物語。

 

衿はいつのまにかすこしヨレヨレしてしまって、

カフスは少々黒ずんで、あれ、真っ白だったのに、全体になんだか黄ばんでしまったかも。

 

もうかれこれ何年か、いや何十年このシャツはいつもクローゼットのよく着るコーナーにぶら下がっている。

春はこれ一枚、夏は羽織物代わりに、秋はセーターの下に、冬はコートとマフラーに隠れて見えない。

それをもう何度となく繰り返してきた。

 

長い時間を共にできる服。

物語を一緒に過ごせる服。

汚れてゆくその様まで愛おしい服。

理想の服。

 

もちろんこれをタイピングしているその間も、そのシャツは僕と一緒に時間を刻んでいます。

 

 

2016/4/21

はじまりのはなし

 

 

とあるグループの10周年に恵まれて、立ち会うことが出来た週末。

 

キラキラ舞う人達に10年という厚みを感じて、思うことの多い数時間。

 

英語ではdecadeという単語もあるくらい、10年というのは大事な節目。続けてきた人や物事に敬意を感じずにはいられない。

 

彼女達の10年前の映像なんかを見ながら、

思うことも多く、つきなみだけれど継続というのはそれだけで価値のあることです。

 

僕がdecadeという単語を自分自身に対して使えるようになるまでにはあと五年ある。

まだまだ半分。

それでも僕にとってはひと時代で、振り返ることも多くなった。

 

tobariを始めた当時、"オリジナル"という言葉に取り憑かれていて、ただ単純に、使う素材を自分で作ればオリジナルなものになるんじゃない?というのがtobariのスタートでした。

 

染めたり刺したり、はぎ合わせたり。

 

そうこうするうちにオリジナルという単語の解釈もずいぶんと変化してくるものです。

大して意味のないことに思えることだってあります。

 

運も相まって、いろいろなことをこの5年ではじめることが出来たけれど、

もうすぐdecadeまでのはじまりをはじめないと、と気分も新た。

 

今日も相も変わらず布を染めて、刺して、はぎ合わせています。

 

5年目、6年目、7年目、8年目、9年目、とりあえずは10年目を迎えて、

decadeなんて、この国じゃあまり耳慣れない言葉を、

少し鼻高々に使えるように、

 

今日も布を染めて、刺して、はぎ合わせています。

 

 

2016/3/15

 

 

 

 

今日は灯(ひ)が落ちるまでいようと思って

 

 

ぐんぐんぐんぐん、地下に潜って、

ごとごとごとごと、電車に揺られて、

わいわいがやがや、すり抜けて。

 

贅沢なお家や大使館の並び、今日はとりわけ静かです。いつも静謐で清潔で緊張感があるのだけれど。

 

それでも今日はなんだかいつもより。

 

お庭に遊びに来させて頂いたようで、いつも嬉しくなっていた。

とてもとてもプライベートで今ここにいる人たちしか知らない秘密の場所みたいで。

 

そこにはいつも愛おしい"暮らし"そのものが並んでいた。

食器のこともあれば、衣類やかばんにカゴ、便箋だってあるし、タオルやハンカチも。

暮らしそのものが丁寧に並べられていた。

 

今日も数ある暮らしの中から、ぼくは、おこづかいでも持ち帰れる小さなブローチを。

まさに今日の記念、ここでの思い出の記念、ずっと時を経た記念メダルみたいでかっこいい。

 

そう、ここには暮らしと合わせて思い出もある。

冒頭のぐんぐん、ごとごと、わいわいを毎日繰り返して通った数日もあったな。

 

 

 

その時から憧れの姿だった。

凛としていて、華やかで、柔和で、丁寧で。

この空間を切り盛りする姿がとても美しくて。

この人の人格がまさにこの空間そのもの、という雰囲気。

 

その人がお隣のお客様にふとおっしゃった。

 

 

"今日は灯(ひ)が落ちるまでいようと思って"

 

 

なんて今日にふさわしい言葉だろう。

 

今日でここは終わってしまう。

誰の目にも触れないお庭になってしまう。

 

それでもここから持ち帰った暮らしは、それぞれの場でこれからも続いていく。

これからもみんなここを思い出しながら暮らしていくのだ。

 

灯はそれぞれの場所でまた灯る。

 

 

2015/12/24

 

あおいうた

 

 

いつぶりだろう、ふいに思い立って聞いている。

 

PCの音楽ライブラリ、再生回数はまだ一桁。

それでももう何度も何度も繰り返し聞いている気がしている。

 

中国茶のおいしいカフェだった。

仲の良い友達が当時はまだみんな持っていた

CDウォークマンにセットしたCDをテーブル越しに

イヤホンを伸ばして聞かせてくれた。

"あなたきっと好きだと思う、声も曲も"

 

その帰り、出来たばかりのCDストアで覚えていなかった歌手の名前ではなく、

アルバムのタイトルだけで探し出した。

 

当時、僕も彼女も節目と言われるような時期だったと思う。

僕は新たな世界を見たいと、大きなステップにチャレンジしようとしていたし、

彼女もまた生きる世界を変えようとしていた。

 

そういうわけか、振り返ってみたら、

この曲を想い出して、無意識に再生する時はいつも何か節目と

いわれるような時期だったかもしれない。

 

遠い国、まだ見ぬ世界から届いた静かなバラッドのようなこの曲は、

いつも僕が違う世界に向かう直前にふわりと流れてきた。

 

泣いていた事もあったし、

ただただ空(くう)を見つめていた時もあったし、

水を打ったように心静かな時もあった。

 

この曲が知らせてくれた節目の予感、

どうやらまた新たなその時が来たらしい。

 

青は深い夜の色、

青は冷たい涙の色、

青は爽やかな風の色、

青は静謐な心の色。

 

この節目が僕にとって、青く美しいものでありますように。

 

 

2014/10/7

いきるつくる つくるいきる

 

 

生業とは生きることそのものだと思う。

生きる業(わざ)と書くのも納得である。

人生のほとんどの時間をそこに費やして、

来る日も来る日も注力し続けるもの、

それが生業だと思う。

 

生きる事と作る事が等号で結ばれるような、

そんな"仕事"を目にする度に陶酔してしまう。

どんな素敵な映画や舞台よりもそれは美しいドラマで。

 

ありがたい事に、そんな仕事の現場に目を向けて、

それをお裾分けしてくれる人というのが少ないながらも

この国にはいて、今日も一つ拝見して来た。

 

竹籠細工。

一本の竹を季節を見計らって伐採し、

何度も何度も裁断し、なめしてヒゴにする、

その後、繰り返し規則的に編んでゆく、もちろん

竹そのものの性質を無理なく活かした形態に。

 

1から10まで、その行程を一人で行う職人の

生き様とその結果。

会場には種々の竹籠。

どれも愛おしく、美しい。

 

そこにはきっと嘘をつく隙間がどこにもない。

自分の手と、素材、ただそれだけ。

不純物を寄せ付けないその環境と方法。

それによって産まれたものにももちろん嘘も不純物もない。

 

 

自分の作った物に嘘はないだろうか、

自分の作った物に不純物は混ざっていないだろうか、

自分の生き方に嘘はないだろうか、

自分の生き方に不純物は混ざっていないだろうか。

 

自問自答の中見た作品群と映像は、

そこはかとなく透明で。

 

 

2014/09/13

 

 

 

 

 

ゼロの効能

 

 

先日、久々に映画館で見た大好きな映画監督の新作映画、

その主人公の名前は"ゼロ"だった。

忠実で真っすぐなその愛らしいキャラクターに

すぐに夢中になってしまう。

 

どうやら一波去ったな、というように、

周囲がそろそろと引きを見せていて、

僕もその流れに抗うことなく、さらさらと身を委ねている。

 

引いていく潮に合せて、身体という、しかも平均から比べたら

幾分小さめなその容れ物から、溢れるくらいに詰まっていた

諸々も流れ出て、僕はまたゼロに向かっている。

 

季節が変わり始めるのと時を同じくして、

持てるもの以上の内容物もどんどん、どんどんその容積を減らして、

それに伴う質量の減少にもまた心地よさを感じている。

 

いつの間にやら、欲張りで心配性な僕は

容れ物の中に沢山の品々を詰め込んでいる。

もちろんそれなりの心地よさもそれにはあって、

転ばぬ先の杖的な安心感もある。

 

何も持たないという事は、大概とてつもなく怖い事である。

 

それでも僕はゼロの魅力も知っている。

あの映画の登場人物のように、軽やかで無垢なその

魅力も知っている。

 

あぁ、またゼロになってしまった、

だなんて思わない。

ようやくゼロに戻って来れたのだ。

 

ゼロの身体を浮き輪代わりに、

今度は少し先まで手と足を動かして泳いでみる。

重い中身はもう何もない。

 

岸辺は少し遠そうだけれど、重い荷物を持たない今ならば、

案外プカプカとすぐに着くのかもしれない。

 

 

2014/08/27

 

 

 

 

 

幸せな足音は丸く集う

 

 

寒い、寒いと口々にぼやきながら

実はみんな笑顔で、頬もすこし暖かい色を付けていたりする。

 

続々と沢山の人がもう春もそこまでという冬晴れの日に集う。

 

優しい光の下の、おいしそうな食べ物や、

この日のためのデコレーション、

みんなほんの少しいつもよりオシャレをして

幸せな時間を共にしに来た。

 

よく幸せなんて目に見えないなんて事を耳にする。

確かにそう、これが幸せというものなんですよ、

と写真付きで百科事典の"し"の項目に載ったりなんかしないし、

額付きで博物館の壁面に"しあわせ"という説明書と一緒に飾られたりもしない。

 

それでももしかしたら幸せは音を持っているかもしれない。

例えば、心地よい靴音みたいな。

 

コツコツとその人がどこか高揚して踏みならす足音は

とても幸せに響く。

 

乾いた、冬の凛とした空気の中で、

とりわけその音はよく響く。

コツコツ、カツカツ、コトコト、カタカタ。

音はもちろんそれぞれ。

でもどれもこれも、幸せな音には間違いない。

 

大の大人が幸せな足音をこれでもかと言わんばかりに

踏みならす。

輪になって、何度も何度も踏みならす。

それぞれの幸せの足音はいつのまにか

音楽になって、幸せな曲になる。

 

幸せな誰かが鳴らした幸せな足音に幸せな顔をして耳を傾ける。

 

 

そんな幸せな時間の主役の二人は、

今日もせっせと幸せな足音の鳴る靴を丁寧に丁寧に作っている。

 

 

2014/3/10

 

 

 

はじめて

 

 

おそらくみんなの初めての遠足は、

遠く江戸の世だった。

シックな着物の大人に引率されて、

冬の夕暮れ、少し遠出をして来た。

 

みんなでお饅頭も食べたし、

少し大きな飴玉も買ってもらったし、

おなじみのおそばや、うどんもすすって、

みつがたっぷりのお団子も頬張って、

熱いお茶も。

 

 

僕の生活にも恒例になりつつある落語会、

今日はいつもと少し違う。

それは初めての遠足に同席させて頂いたようだった。

 

まだまだ小さな子供達が今日の落語会には参加出来て、

みんなの"はじめて"を目の当たりに。

 

まだまだ未熟な僕であっても"はじめて"というのは

随分と減って来た。

あの高揚や緊張や、照れくささや不安や期待を

経験する機会も随分と減ってきた。

 

目の前にいる沢山の小さな僕の半分くらいしかない、

より小さなみんなには、まだまだ"はじめて"の方が多い。

まだまだ透明で純度の高いレンズには見えないものも

易々と鮮明に写る。

 

噺家さんのお噺、身体、ちょっとした小道具(扇子に手ぬぐい)

それだけあれば純度の高いレンズにはもう十分で、

それこそ手元のおそばには熱い熱い熱を感じるし、

湯気だって見える。味や、香りだってまるで目の前にあるように。

言ってみれば大人の男のただの手元。

それでもお噺中、そのしぐさに「美味しそう」なんて漏らしている。

 

 

どんなに愛おしくて、羨ましく感じたか。

 

あの頃に戻りたいなんて、滅多に思わないけれど、

想い出すくらいはたまにはいい。

 

僕自身にも純度の高いレンズを無意識に持っていた時期はあった。

その頃に見たものはいまだに鮮明で。

 

 

キラキラした鮮明な"はじめて"を沢山積み重ねて

ストックしている人は間違いなく豊かな人。

その豊かな人の種を育てて引率するのもまた豊かな人で。

 

豊穣な時間というのをひょんな事から体験することになった。

 

 

明日からもみんなには毎日それぞれの"はじめて"があるのだろう。

それを大事に積み重ねて、いつかの同じような

冬晴れの日に想い出して、ほっこりしたりする。

 

僕も明日は、なにか"はじめて"をまた一つ重ねてみよう。

少なくはなったけれど、探せば"はじめて"なんていくらでも

あるかもしれない。

 

キラキラした"はじめて"を柔らかい布のようにして、

レンズをまた一生懸命に磨くのだ。

 

 

2014/2/1

 

 

 

 

 

 

夜は明ける

 

 

 

夜は間違いなく明ける。

 

それはもう太古の昔から、毎日毎日連綿と

続く、確固たる自然の摂理であって。

 

時として永遠に続くかと思われる冷たい夜も、

あっけないくらいに、否定のしようもなく、

また新しい朝に更新されていく。

 

じわじわと地面との接点が、

優しい青に彩られて、いつの間にか

身体の輪郭も浮かび上がってくる。

 

まだ自信の無いその輪郭を改めて確かめるように、

少し手で触れてみる。

良かった、ちゃんとそこには実態もあって、

中身もしっかりと詰まった身体があった。

手にじんわりと熱すら感じるじゃないか。

 

 

初めての街で、運良く夜明けと題された展示を見た。

そこでは、夜明けという言葉は、僕にとってほんの少し馴染みのある

異国の言葉に翻訳されていて。

あの街にいたころ、割合大きかった窓から何度となく見た

夜明けを想い出している。

 

いつもの街に戻って来て、

ふいに、魔法みたいにも聴こえるその言葉が頭をよぎる。

 

混んだいつもの電車。

大袈裟なマスクをした口元に手を当てて、

誰にも聴こえないように、その魔法を口にしてみる。

たまに馬鹿にされる、あの街式の発音で。

 

 

その時手に感じた熱は

いつもより少し暖かかったかもしれない。

 

 

2014/1/21

 

 

 

本はやさし

 

 

今日も僕の代わりに泣いた。

昨日は僕の代わりに怒った。

その前の週だったか、僕の側でずっと話を聞いては慰めてくれた。

 

 

本はもう随分と長い間、僕の側で、それこそ真隣で、

まるで僕の盾であるかのように、

静かに、でもしっかりと寄り添ってくれている。

 

 

僕にはそんな強い味方がいつも心地よい質量を持って、

そこかしこに居てくれる。

ボロボロになってきたバッグの中に、

何年も着ていない服がつまったクローゼットの片隅に、

書類で乱雑なデスクの上に、

たまにはズボンの後ろのポケットに。

 

 

本に僕が怒られる事もある。

せき立てられる事もある。

無視される事もある。

 

それでもそれも全部僕のため。

開くといつでも本は僕を育ててくれる。

深い深い、愛を持って。

お父さんやお母さんみたいに。

 

 

本はとめどなく、どこまでも僕に優しい。

 

今回は少し、本達に恩返しをしてみた。

 

寒い冬、熱い夏、本が身体を壊さないように

服を着せてあげた。

 

ありがとう、という気持ちで僕が作った服を

プレゼントしてみた。

 

本にはその本の誕生日が書いてある。

次の誕生日には、また新しい服を作ってあげよう。

 

 

2013/12/12

音の鳴る絵のはなし

 

 

確かに僕はその時聴いていた、

見るというよりは、聴いていた。

 

どのくらいの時間だったか、

線は面になって、また色を伴って、痕跡はあれよあれよと言う間に

世界を創った。

 

 

目の前で作家が世界を形作っていく現場を目にする機会は意外と少ない。

あの夜、人いきれをかき分けて、僕は幸運にもそれを目の当たりにしていた。

もうすでに完成して、目の前に提示された世界ではなくて、

今まさに世界が産まれるその現場。

 

もしかしたら神様も、この世界をこうして同じように、

今も描き続けているのかもしれない。

思いつくままに。

 

 

世界もそろそろ、一定の広がりを終えて完結し始めた頃、

はたと気がつく。

 

 

 

どうやら僕は耳で絵を聴いていたらしい。

 

 

 

絵を聴く、だなんてなんだかおかしい。

それでも確かに僕はあの夜のあの時間、

その絵の音を聞いていた。

 

それはもしかしたら世界の産声だったのかもしれないし、

その世界に吹く風の音、よせる波の音だったのかもしれない。

 

何にせよそれは心地よい緩急をつけて、

僕の耳にしっかりと響いていた。

 

 

絵は、世界は、音を奏でるものらしい。

 

 

彼は言った、愛をもって、描いています、と。

 

 

愛ある絵には音がある。

愛ある世界には音が鳴り響く。

 

 

音に溢れた夜の"絵を聴く"という体験。

いいねは声に出して

 

 

思いがけず何度も呼ばれる名前にこたえて、

もうすっかり僕は江戸の世界をせわしなく行ったり来たりしている。

まるであの有名なドラマのワンシーンのように、

目を開けたらそこはもう江戸の世で、

あぁでもないこうでもないの、

ちゃきちゃきのやりとりにのめり込んでいる。

 

 

先日も機会があって、落語を拝聴してきた。

普段、実はあまり触れる事のない日本の芸能。

もちろんテレビやインターネットで馴染みの

リズムやテンポとは随分違う。

それでもなぜだかすっと身体に馴染んで、

いつもとは違う身体の部分を使って、楽しいを感じているのだ。

 

 

指先一つ、ほんの少し動かすだけで、

楽しいという思いも、良いなという感情も現せる。

親指が突き出た印めがけて、指を少し、動かすだけ。

表情一つ変えなくても、その動きだけで、多くの他の

人々と同じ、均質の、つるりとしたいいねを伝えてしまう。

 

 

二席の落語を聞く人々はもちろんその場に、

あの便利な親指マークを持ってはいない。

それでも誰一人困らない。

みんな親指マークより有効な、いいねを伝える手段を持っている。

 

ある人は大声で笑うし、

ある人は手を叩く、

ある人は表情もなく、親指マークの無い状況に戸惑って

いるかと思いきや、しっかりお噺のタイミングに合わせて

コクコクうなづいている。

 

 

そうそう、そうだった。

いいねはいつもこうして伝えていたのだった。

ずっとずっと昔から。

それこそこの時迷い込んでいた、江戸のあの世よりもっと以前から。

 

隠しても隠しきれない高揚したほっぺの赤さや、

思いがけずこぼれる涙や、

我慢しきれず吹き出す口元や、

無意識に鳴らす両の手。

 

こうやっていつも何かに対して、いいねは伝えて来たのだった。

 

 

感触のあるいいね。

質感のあるいいね。

 

それはいつの時代も最良のいいねの伝え方。

 

 

次のいいねは是非とも声にだして。

 

 

2013/10/22

美しいのはその手元

 

 

郊外、まだ夏が残る日差し。

連なって入ったそこには、意外にも鮮やかな色は少ない。

ただ、差し込む光に所狭しと置かれた道具達が強い影を作っていて、

そのコントラストはなんとも美しい。

 

縁あって、日本手ぬぐいの注染工場にその製作過程を拝見しに伺った。

考えてみれば、いつもバッグの中にはハンカチ代わりに

手ぬぐいが収まっている。

それでもその製作過程にあまり思いを巡らせた事が無かった気がする。

 

 

美しい、充実した仕事が産まれる現場には、

いつも間違いなく心地よいリズムがある。

今回伺った工場内にもそんな肩を思わず揺らしてしまうような

リズムがそこかしこに溢れていた。

 

いくつかの行程に分けられた製作過程では熟練の職人さんが、

休む事なくそのリズムを刻んでいる。

右に左に、上に下に、道具をあやつるその動きには無駄が無い。

上質なオーケストラが一糸乱れぬ動きで楽器を操って、

音楽を奏でるかのごとく。

 

長年使い続けているのであろう、前掛け。

同じ部分が繰り返し長い間染色台に当るので、

そこだけがすり切れている。

 

長い注ぎ口のついた如雨露で重ねた生地に色をさしていく。

その絶妙な感覚で染料を調節しているらしい。

 

長い長い反物を大きく大らかに流水で洗う。

布地が水の中で計画的に漂う。

反物を操る職人さんによるものだ。

 

乾いた反物は丁寧にくるくる巻き取られていく。

今しがた染色された柄が、目の前を一定のスピードで規則的に流れていく。

まるで活動写真のよう。

 

どの行程もオートメーション化はされていない。

いつもそこには愛おしい手が関わっている。

 

手こそ、最も信用に足る道具として活躍している。

実はそう多くは無い手。全部合わせても数十本だろう。

もちろんそれぞれ役割の違う手。

でも間違いなく言えるのは、その手の全部は仕上がった手ぬぐいに

負けず劣らず美しいということ。

 

手は使えば使うほど、美しい物を産めば産むほど、

美しく育っていくものらしい。

 

 

2013/9/25

与太郎噺

 

 

 頬を赤らめて、ニコニコと愛らしいのである。

 ペコペコ、うんうんと、

 素直に言いつけを聞いている。

 

 昨日の与太郎の事である。

 機会があって、落語というものを久々に拝聴。

 

 その中に登場した憎めない与太郎に

 すっかり心奪われてしまって、

 自分も彼と同じように、うんうんと首を上下させてしまう。

 

 与太郎というのは落語にはよく登場するのだそうで、

 呑気で楽天家なそのキャラクターがお噺に色を添える。

 

 

 どうして彼にこんなにも心奪われるのか。

 

 考えてみたら彼はとても純度が高いのだ。

 純度の高い水や宝石がそうであるように、

 彼もキラキラと美しいのである。

 

 与太郎はその性格から人に笑われたり、からかわれたりするらしい。

 それでも彼は相変わらず、ペコペコ、ニコニコ、キラキラ美しい。

 

 

 目指すは与太郎というところ。

 純度を保って、ニコニコしていれば、

 ああいう風に美しくなれるかもしれない。

 

 

 思いがけず寒い帰り道、

 すっかり手まで冷たくなってしまった。

 

 でもそんな事すら嬉しい夜。

 だって落語家さんの噺によると、手の冷たい人は

 それに反して心が温かいのだそうだから。

 

 大切なものというのは、ふいに、

 とりわけこういう冷たい夜に気づいたりもする。

 

 2013/4/22

この度tobariのwebサイトをオープンする運びとなりました。

新着情報、デザイナーの日記、過去の作品の写真等、随時更新していく予定でおります。

 

またCONTACTのページからは各種お問い合わせも受け付けております。

 

まだまだ未熟なwebサイトではございますが、今後、ブランドとともに成長していけるようなサイトにしたいと思っております。

 

何卒よろしくお願い致します。

 

tobari 森 亮介

 

We have just launched our new website.

 

We intend to upload our current news and designer's dialy and also our past works.

 

On top of this, we always accept various inquiries on the CONTACT page.

 

Although our site is still rather simple, we would like to raise it little by little with our brand "tobari".

 

tobari  Ryosuke Mori

 

10/04/2013